2022.04.30
2020.12.26
2023.09.07
前回のコラムでは「見てくれているという圧倒的信頼感」が子どもとの関係を作る上で大切だ、と書いた。しかし「見方」を間違えるととんでもないことになる。ということで今回は「監視」と「観察」についてお伝えしていこう。
私は教員生活を「小学校教員」からスタートした。小学校低学年の担任として初めて子どもたちを受け持った時、子どもたちが「先生見て!」と口々に言ってくることに驚いた。鉄棒をやれば「見て!」図工で作った作品を「見て!」拾ったどんぐりを「見て!」とにかく見てほしくて仕方がないらしい。
皆さんのお子さんはどうだろう。幼い子どもは「見てもらう」ことが嬉しくて仕方ない、ということが多いのではないだろうか。こちらがどんな状況だろうが、「見てほしい」のだ。
ところが、これが年齢が上がってくるうちに「見ないで」に変わってくる。中学校に異動してから、生徒に言われてショックだったのは「こっち見るな」だった。机間巡視しながら生徒が解けているかどうか見ていた時「見ないでください」と言われたこともある。
なぜこちらがうんざりするほど「見て見て!」だった子どもが「見ないで」になるのか。これこそが監視と観察の違いなのではないか、と私は思う。
幼い子どもが鉄棒で逆上がりをする姿を見る。図工で作った作品を見る。子どもが拾ったどんぐりを見る。このとき子どもが求めている「見る」は、正しいかどうかの判断や、良し悪しの評価をしてほしいのではない。興味・関心を持ってほしいということだ。そして私たち大人は、小さい子どものやることに対しては、純粋に興味・関心を持って見ることができる。
ところが年齢が上がってくると、そこに「判断」や「評価」が加わってくる。
【そんなことで大丈夫なのか。こっちの方がいいんじゃないか。そんなことよりこっちが大事。そのやり方ではだめ。ちゃんとできているのか。それで間に合うのか。もっとうまくできないのか】
など、さまざまな思考が働き始める。純粋に興味・関心で見ることを邪魔するのだ。
こうなると、ただ見てほしかった子どもは「おや? おかしいぞ?」と感じ始める。見ている大人からの指示や命令、必要以上のアドバイス(と見せかけた強制)によって、不自由さを感じるようになる。
これまで見てもらうことは楽しいことだったはずなのに、見られることで自分が不自由になり、比べられることで自分の興味・関心が否定されたように感じる。できていないことを指摘され、修正するようにアドバイス(強制)される。そうなったら、見られたくない、と感じるようになるのは当たり前だろう。
小学校2年生を受け持った時に、ノートや絵を手で覆うようにして隠しながら書く子がいた。絶対に見せようとしないのだ。どうせ提出して掲示されるのだから、見られるものなのに、かたくなに見せたがらない。なぜなのだろうか、と思っていたが、家庭訪問をした時に、下の子への対応を見ていて、なんとなくこれかな、と思いあたったことがある。
私たちが話をしているすぐ横で、幼稚園児の下の子がお絵かきを始めた。するとお母さんがチラチラそちらを見ながら「そこはその色じゃない方がいいんじゃない?」とか「そんな形してる? ちゃんとよく見て描いてごらん」とか「はみ出さないように塗ろうね」とアドバイスをするのだ。
おそらく、お客さん(私)が来て嬉しくなって、得意げに見せようと思って描いていたその子は、あれこれ言われるうちに描くのをやめて違う部屋に行ってしまった。
お母さんはそれを見て「いつもあんな感じでやめちゃうんですよ」と言っていたが、いつもその調子で子どもを見て声をかけているとしたら、描くのをやめたり、隠すようになってしまうのもわかる気がした。
そのお母さんはとてもきっちりした方で、物腰も柔らかく、決して子どもを怒鳴りつけたりするような方ではなかった。もちろんアドバイスも強制や否定しているつもりではなく、むしろ、より良いものを、もっと上手に、と思って言っていたのだろう。
だが、それが子どもから自由を奪う「監視」として、子どもに伝わり、影響しているとしたら、お母さんの狙いとは逆効果だ。
幼い子どもをただ興味・関心で見ているときの「見る」が観察。子どもを自分の思う方向やたどり着かせたい結果に向かってコントロールしよう、という気持ちが入って「見る」のが監視。さて、今、ご自身は子どもをどちらで見ているだろう。年齢が上がるにつれ、コントロール目的の監視になってはいないだろうか。
こうやって書いている私も、振り返ってみれば、低学年の子たちのやることは観察することができていたのに、高学年~中学生になるに従って、監視になっていたと感じる。学年が上がれば上がるほど「こうでなければならない」「こうさせなければならない」が強くなっていく。
年齢とともに勉強は難しくなり、やることは増え、求められるレベルが上がる。ちゃんとやらせなければ子どもたちが困るに違いないと思うから、観察がだんだん監視に変わり、正しい方向に導かねばならないというコントロールに変わっていく。
その裏にあるのは、「この子は自分では正しい選択ができないのではないか」という「不信感」だ。例えこちらがそう意図していないとしても、不信感は子どもに伝わってしまうものである。
そこから信頼関係が崩れ、コントロールされそうだと感じて、それに抵抗しようと「反抗」という現象になって現れる。それが「思春期」という、ただでさえ自分でも自分がコントロールしにくい時期に重なることが多い。
もし、既に子どもが見られることを嫌がったり、やっていることや結果を隠すようになっているとしたら、自分の「見る」が監視になっていないかどうかを考えてほしい。その子の性格だから、で片づけていいものなのか、こちらの関わり方がそうさせているのか。もし、関わり方で変えられることがあるとしたら?
思春期に入るまでに、どんな見方、声かけをしてきたかで、思春期以降の親子の関係性は変わる。監視ではなく観察ができる、程よい距離感をつかんでいただければ幸いである。
次回は「距離感」について話したいと思う。ご感想や、他に読みたいテーマがある方は、ぜひ編集部まで。
鶴岡そらやす
大学を卒業後、小中学校合わせて15年の教員生活の中で2000人以上の子どもたちと関わり、2014年、一念発起して退職し学習塾を開講。小、中、高校生の子どもたち、保護者へのコーチングにて問題発掘と課題解決を行う専門家として実績多数。大学生のキャリア支援メンター、高卒人財の就職支援、企業の新入社員研修などにも関わっている。2020年には親子で考える多様性についての書籍を出版。学校、教育委員会や、市民の集いなどで、生徒、教員、保護者への講演会を開催。
小学校から社会人として自立するまでの発達段階を踏まえた、長期的視点からの子育てのポイントを伝えている。
Ameblo:profile.ameba.jp/ameba/soranyasu
FQ Kids VOL.14(2023年春号)より転載
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