2021.10.24
2022.10.04
2020.05.08
前編は「FQ Kids VOL.02」で!
これらの作品(『ジャングル大帝』や『ゲゲゲの鬼太郎』、『ウルトラマン』)では、猛獣は善、妖怪は善、怪獣は善です。これらが悪で、それを倒す人間が善という勧善懲悪ではありません。人間こそが究極の悪なのに、仕方なく善であるものたち人間が殺す。子供ながらに悲しくて苦い思いを味わい、涙を流したものです。
そうした作品を観て育てば、僕が「ウヨブタ」と呼ぶ「日本人は善、中国人は悪」みたいな、頭が悪く、感情の劣化しきった発想はできなくなります。僕を育てた番組は、仲間の中に敵を見出し、敵の中に仲間を見出すものばかり。それこそが倫理的な在り方です。
日本には昔から、児童文学『泣いた赤鬼』(浜田廣介作)みたいな「悪に見えて、実は善」という話がとても多いのです。これは戦前の作品ですが、主人公は鬼というだけで人間に怖がられてしまうけれど、実は誰よりも優しい鬼だった、という物語です。
さかのぼると江戸時代には世話もの(心中もの)がありました。近松門左衛門作の人形浄瑠璃『曾根崎心中』では、倫(みち)ならぬ恋ゆえに社会から疎外された二人が死を決意した瞬間、人形が輝きます。悪として疎外された者が輝く──これが日本の伝統です。
僕が小学校4年生だった1969年に始まった石ノ森章太郎原作のSFアニメ『サイボーグ009』も、9体のサイボーグが最終破壊兵器という設定で、戦争なき時代においては社会の鼻つまみ。そんな周辺的存在だからこそ力が降りて光輝く。伝統の設定です。
僕の言葉でいえば「言外・法外・損得外のシンクロ」を奨励するのが、日本の伝統。言葉・法・損得の世界で──つまり社会で──、悪だったり違法だったり損だったりしても、大したことじゃなく、人はそれらを超えた時にこそ真価を表すのだと教えてくれます。
要は「言外・法外・損得外のシンクロ」を示す表現の伝統を忠実に踏まえたものが60年代の子供番組でした。それが1971年に石ノ森章太郎原作『仮面ライダー』がシリーズ化され、悪の軍団「ショッカー」が出てきた頃から、単純な勧善懲悪に堕落します。
ただし元々の石ノ森漫画における仮面ライダーのキャラは「絶対悪にこそ美が宿る」という独特の前衛美学を反映したもの。子供向けコンテンツからはこの要素が消されました。ウルトラマンシリーズも『帰ってきたウルトラマン』の頃から勧善懲悪化しました。
なぜか。当時の演出家に伺うと、60年代までは大人が子供と一緒に見て、難しい所を説明してくれたので、説明を省略した表現ができ、中身が濃いものが作れたし、また大人が見て耐えうる内容にする必要もあり、子供番組に才能が集まったとのこと。
ところが、70年代以降は子供だけで観る割合が増え、1人で見てもわかる単純な勧善懲悪にシフトせざるを得なくなった。けれども、それはスポンサーの意向ではあれ、作り手の本意ではなく、作り手の力量が下がったわけじゃないと話してくれました。
でも80年代に入ると「所詮子供番組だろう」とナメてかかる作り手が増え、作り手の質が下がったとのこと。ただ80年代末から数年間、番組を朝の枠に移し、かつての子供番組の質を知る主婦と一緒に観るとの想定で、高度な表現がなされた時期もあります。
それが『仮面ライダー・クウガ』などの初期「平成仮面ライダーシリーズ」ですが、以降は専業主婦の割合が激減、90年代半ばから元に戻りました。今の子供番組の大半は、60年代後半や90年代前半と比べて、見る影もないほど劣化しています。
幸い、今はインターネットの「Netflix」など定額制の動画配信で、昔のアーカイブスを幾らでも観られます。僕みたいに詳しい人が近所にいれば──僕が言う「ウンコのおじさん」ですが──どれをどんな順に観たらいいかを教えてくれるでしょう。
宮台真司 SHINJI MIYADAI
1959年宮城県生まれ。社会学者。映画批評家。首都大学東京教授。公共政策プラットフォーム研究評議員。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了(社会学博士)。『日本の難点』(幻冬舎)、『14歳からの社会学』(世界文化社)など著作多数。
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