2024.06.28
2022.06.26
2024.06.03
>>前回コラム【親子関係はどんな見方・声かけをしてきたかで変わる! 誤りやすい「監視」と「観察」の違い】
私は、中学、高校と剣道部、大学では空手部に所属してきた。「間合いを制するものは勝負を制する」といわれるくらい、武道において相手との距離感というのは大変重要である。近過ぎても遠過ぎても良くない。勝負とは、自分が最も得意とする間合いの奪い合いといってもいいだろう。
初心者のうちは、間合いなどわからないので、とにかく必死に先生や先輩に向かっていくのだが、こちらが近づけば下がる、下がれば詰める、手も足も出ない状態にいつの間にか追い込まれて、苦し紛れに攻撃しようとしてやられる。
いくら竹刀が鋭く振れるようになっても、突きや蹴りの形が取れて威力とスピードがついてきても、その技が相手に効果的に当たらなければ意味がない。つまり、その技が最も効果を発揮する間合いが取れなければ、勝てないのである。
自分の間合いを知るために、まずは吊るされたサンドバックや、防具をつけたりミットを持って動かずに当てさせてくれる相手に対し、自分の技を当てる。動かない的に対して、最も威力のある距離や角度で自分の技を当てていくと、何となく使えるような気がしてくる。これが当たったら効くだろうなあと思うようになる。
ところが実際に試合となると、今まで使えると思っていた技がまったく通用しない、という現実に直面する。当たれば威力があるのに、と思う技が当たらないのだ。空振りしたり、近過ぎて止められてしまったり、自分の思うようにはいかない。
当然だが相手だって技を食らいたくはないし、何なら自分の技を先に当てたいと思って動いている。サンドバックのように、当たるのをじっと待ってくれるはずはない。相手が動くということは、自分が思った最適な間合いに入ることが、難しくなるということである。
特に初心者のうちは、間合いが近くなりやすい。無我夢中で近づいて振り回すしかできない。近づき過ぎると視野が狭くなる。ある程度の距離を保って、まずは相手の全体像を見ることが大事なのだが、うまくいかないと「何とかしなければ!」と焦って、ますます周りが見えなくなる。そして、効果のない技を闇雲に出して、体力を消耗し、疲弊して力尽きるのだ。
相手の呼吸、構え、どちらに動こうとしているのか、どこを見ているのか。距離をとって全体を見なければわからないことはたくさんある。
それがわかってくると、相手が動こうとした瞬間に間合いを外したり、逆にふと気が抜けた瞬間に、さっと間合いを詰めたり、相手との距離に合わせて使う技を切り替えたり、相手の出方に応じてカウンターを取るなど、こちらの技を効果的に決めることができるようになってくる。
子どもとの関係もこれと同じといえる。子どもが今何をしようとしているのか、何を嫌がり、何を欲しているのか。どんな意図を持って動いているのかなど、少し距離をとって見ることができているだろうか。
子どもの成長とともに、効果的な対応も変わっていく。いつまでも「小さい頃効果的だったから」と、同じことを繰り返していくと、うまくいかなくなる。それは、間合いを見誤って、効果のない技を繰り出しているのと同じ状態である。
例えば、子どもが3歳の頃、ぐずった時は、寝るまで隣で添い寝しながら絵本を読んであげると、機嫌が良くなっていたとする。だからといって、その子が中学生になり、機嫌が悪くなった時に「一緒にお布団で寝ながら絵本を読んであげよう」としても、機嫌が良くなるどころか、ますます嫌がられるだろう。そのレベルでは、むしろそっとしておく方が効果が高い、ということになる。これは極端な例だが、似たようなことをしている場合が結構ある。
子どもに対して、適切な距離感とは、相手がしてほしいことをしてほしいタイミングで差し出せる距離のことだ。当然、してほしいことは1人ひとり違う。だからこそ、子どもの全体像をじっくりと観察できる距離、つまり「間合い」が大切だ。
とはいえ、どうしてもわが子となると距離が近くなりやすいものである。
私が思春期の頃、今は亡き育ての母(小学校6年生の時に父が再婚して、新しくわが家にやってきた母)から「お母さんは、あなたと血がつながってなくて良かった、と思うことがある」と言われたことがある。このセリフだけ聞くと、なんてひどいことを言うのだ、と思う方もいるだろうが、これには続きがある。
「もしも血がつながっていたら、私はあなたを冷静に見ることができなかったかもしれない。血がつながっていないからこそ一歩引いて、あなたを別人格の人として見ることができる。他のお母さんたちが子どもの勉強や、将来のことでいろいろ悩んでいるのを聞くけど、私は、そらやすの人生はそらやすが選んで決めることだと思える。
それは決して愛情がないってことじゃない。もしあなたが心臓病だとして心臓が必要だって言われたら、私の心臓が使えるならどうぞ、って思う。もちろん、血がつながっていても冷静に見られる人はいると思う。でも、私はきっと血がつながってたら今みたいにあなたとは関われていなかった。だから、血がつながってないことがラッキーだって思える」。
この言葉が、私にとってはすごくありがたかった。そして私も、血がつながっていないおかげで、こんなふうに「一個の人間」として自分を見てくれているんだとしたら、それはとてもラッキーなことだ、と思えた。
子どものことをよく見たかったら、「一歩引いて見る」を意識してみよう。血がつながっているかいないかに関係なく、適切な距離は作れるはずだ。一歩離れることで、逆に細部が見えるようになると、今まで見えていなかったことが、きっとあるはずだ。
次回のコラムが最終回になる。最後は「親が子どもに渡せるもの」というテーマでお届けしようと思っているので、お楽しみに。
鶴岡そらやす
大学を卒業後、小中学校合わせて15年の教員生活の中で2000人以上の子どもたちと関わり、2014年、一念発起して退職し学習塾を開講。小、中、高校生の子どもたち、保護者へのコーチングにて問題発掘と課題解決を行う専門家として実績多数。大学生のキャリア支援メンター、高卒人財の就職支援、企業の新入社員研修などにも関わっている。2020年には親子で考える多様性についての書籍を出版。学校、教育委員会や、市民の集いなどで、生徒、教員、保護者への講演会を開催。小学校から社会人として自立するまでの発達段階を踏まえた、長期的視点からの子育てのポイントを伝えている。
Amebaブログ オフィシャルブロガー:ameblo.jp/soranyasu
FQ Kids VOL.15(2023年夏号)より転載
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