2021.05.15
2024.06.19
2024.07.01
親ならば子どもの願いは可能な限り叶えてやりたいと、思うだろう。欲しいものを買い与え、食べたいものを食べさせ、行きたいところに連れて行く。入りたい学校に入れるように、必要ならば塾や家庭教師をつけ、なりたいものになれるよう、習い事にだって行かせる。
しかしその一方、何でもかんでも与え過ぎてしまっていいのだろうか、という葛藤を持つことがある。買ってもらって当たり前だと思ったら良くないのではないか。我慢を覚えることも必要なのではないか、と悩む。
そうなると、どこまでは与えてよくて、どこから我慢させればいいのか? どれが叶えるべき願いで、どれがわがままなのか? と、よくわからなくなってくる。
さらに、そうだ我慢が必要だ! と思っても、子どもに「友達はみんな持っている」「持っていないと仲間外れになる」と言われると、ちょっと考えてしまう人は多いのではないだろうか。
何を与えて何を与えないかは、保護責任のある親が判断するしかない。どこかの誰かが「これは与えてこれは与えません」と決めてくれるわけではない。
家庭によって、判断基準も、与えられるものも違う。経済状況も家族構成も何もかも違うのだから、よそのうちとまったく同じものを一律で与えることなんてできない。
誰だって欲しいものが手に入れば嬉しい。子どもだけではなく大人だってそうだ。そして、簡単に手に入るものよりも、手に入れるのに苦労するものの方が喜びは大きいものだ。
欲しくて欲しくて、それでもなかなか手に入らないものが手に入った時の喜びというのは、言葉では言い表せない。「簡単には手に入らないものをなんとしても手に入れたい」という思いは、私たちを突き動かす原動力にもなる。
考えてみてほしい。世の中にあるさまざまな仕事は、誰かの「これがあったらいいのに」でできている。しかもそれは、子どもの頃それが手に入らなかった人、手に入れるのにとても苦労した人、手に入れるまでに人並み以上の努力を重ねた人の「夢」になっていることが多い。
例えば病気がちで、健康に過ごせなかった子ども時代を過ごした子が、将来お医者さんになって、同じ病気で苦しんでいる子どもを助けたいと思ってお医者さんになるとか。
子どもの頃に学校が嫌で不登校になった人が、同じように学校に行かないことに悩んでいる子の力になるためにNPOを立ち上げる、とか。他にもいろいろあるだろう。
かくいう私も、学校の先生になりたいと思ったのは、元をたどれば低学年の頃、学校が大っ嫌いだったからだ。大っ嫌いな学校を好きな場所に変えてくれたのは、中学年の時の担任の先生だった。
それまで毎朝起きるたびに「火事で燃えて消えていればいいのに」と思うくらい大っ嫌いだった学校を、楽しい! と思えるようになった私は、先生という仕事は、学校を楽しい場所にできる仕事なのだと思った。
少しも楽しくなかった、むしろ大嫌いだった、という経験があったから、人一倍、学校は楽しい場所であってほしいと願い、そしてそれを求めた。結果出会った先生のおかげで教師という仕事の魅力に気付き、それを目指した。
ここでご自身を振り返って、子どもの頃手に入らなかったもの、欲しいと願ったことが、今の自分にどう影響を与えているかを考えてみていただきたい。
欲しいと思った時、親に与えられて簡単に手に入ったものは、その時はきっと嬉しかったに違いないのだけれど、案外覚えていないのではないだろうか。
だけど欲しくて欲しくて、それでもなかなか手に入らなかったもの、結局手に入らなかったものは、意外とよく覚えていて、実はそっちが今の自分に大きく影響を与えていることに気付くのではないだろうか。
そう考えると、何から何まで子どもに与えてしまうことは、子どもたちから大切な何かを奪ってしまうのかもしれない。同時に、すべてを与えようと思ったって、実際すべては与えられないのだ、ということにも気付く。
最初に戻るが、親ならばきっと、与えられる限りのものは与えたいと考えるだろう。だけど与えられないものだってもちろんある。隣のうちで与えられているものを、自分のうちでは与えられないということも起こる。
スマホやゲームを与えるかどうかも各家庭によって違う。海外旅行に毎年連れて行ける家もあれば、一度も海外に連れて行けない家もある。大学まで行かせることができる家もあれば、その余裕がない家だってある。
もしも今、他の家で与えているものを与えられていないことに、罪悪感を抱いている方がいたら、ぜひ今回の話を思い出していただきたい。
与えられることではなく、手に入らないことによって、子どもは自らもっと大きな何かを手に入れることができる「きっかけ」を手に入れている、ということを忘れないでほしい。
親が子どもに渡せるのは、与えられるものだけではない。与えない(与えられない)こともまた、親が子どもに渡せるものだ。私たちの人生は、与えられたものを使って、与えられなかったものを一つ一つ、自分の力で手に入れていく道のり、ともいえる。
そこで、もう一つだけ、与えたいものがある。それは、自分で一つ一つを手に入れていくと決めて、行動する「勇気」だ。
勇気とは、できるかどうかわからないことに対して、自分ならきっとできる、と信じる心から生まれる。
子どもが何かに挑戦した時、失敗した時、どんな関わり方をしているだろう。その言葉は、勇気を与える声かけか、それとも勇気を奪う声かけか。子どもはあなたの言葉を聞いて、失敗したとしてもやってよかった、と思うだろうか。また次も挑戦しよう! と思うだろうか。
「自分の言葉や行動が子どもに勇気を与えているか」という基準を持って、これからも子どもにとって一番の味方であり続けてほしいと願って、このコラムを終わる。
今回で、このテーマの連載を始めて1年の区切りとなる。毎回楽しみに読んでくださった読者の方に、お礼を申し上げたい。みなさんのおかげでここまで書き続けることができた。ここまでの連載が、あなたの勇気の一部になっていれば幸いである。
鶴岡そらやす
大学を卒業後、小中学校合わせて15年の教員生活の中で2000人以上の子どもたちと関わり、2014年、一念発起して退職し学習塾を開講。小、中、高校生の子どもたち、保護者へのコーチングにて問題発掘と課題解決を行う専門家として実績多数。大学生のキャリア支援メンター、高卒人財の就職支援、企業の新入社員研修などにも関わっている。2020年には親子で考える多様性についての書籍を出版。学校、教育委員会や、市民の集いなどで、生徒、教員、保護者への講演会を開催。小学校から社会人として自立するまでの発達段階を踏まえた、長期的視点からの子育てのポイントを伝えている。
Amebaブログ オフィシャルブロガー:ameblo.jp/soranyasu
インスタグラムでは思春期の子どもとの関係づくりのコツを発信中!:@sorayasunavi
FQ Kids VOL.16(2023年秋号)より転載
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