幼児期にある子供たちが今、育むべき力とは何なのか?

幼児期にある子供たちが今、育むべき力とは何なのか?
教えて育てる“教育”。響き合い育む“響育”。「楽しい先に育ちあり」と語る運動あそびプログラム「リーベ式運動あそび」開発者の阪田氏が考える「響育」とは? 

「教育よりも響育を」

私は長年、子供の「運動あそび(体を動かすあそび)」の指導をしてきました。その経験をもとに、現在は保育者の研修や、遊具の開発などにも携わっています。

たくさんの子供たちや保育関係者、保護者の方々と接してきた中で、私がいつも大切にしているのは、「教育よりも響育を」ということです。大人も子供も響きあって育ちあう「響育」という言葉の真意について、これから3回に分けて解説していきたいと思います。

まず第1回目は、幼児期にある子供たちが今、育むべき力とは何なのかをお話しします。

「目には見えない力」を育む

こんな風に表現すると少し怪しく感じられるかもしれませんが(笑)、意欲、協調性、粘り強さ、計画性、自制心、創造性、コミュニケーション能力など、テストでは測れない能力を「目には見えない力」と表現しています。専門用語でいう「非認知能力」です。

一方で、読み書き計算、パソコン操作、体育的活動での技能習得といった、目に見える成果、テストで測れる能力である「認知能力」も存在します。

私は、前者の「非認知能力」こそ、幼児期に育むべき力であると考えています。そして、子供は「あそび」からその力を自然と身につけていきます。「あそび」がいかに子供の育ちを促すものなのか、という点においては今回触れず、その「あそび」をわれわれ大人はいかにして保証していくべきか、についてお話ししていこうと思います。

子供はいつだってあそんでいる

近年、テレビやスマートフォンなどに夢中になってしまい、子供たちの「あそぶ力」が弱くなってきているといわれますが、本当にそうでしょうか。私はそうは思いません。大人の方が、子供のあそびを「見つける力」が弱くなってきているように思います。

子供はいつだってあそんでいます。大人からすればそうは見えないことも、子供のやっていることは、すべてが「あそび」なのです。

そのことを実感した出来事があります。当時6歳だった長男が、風呂上がりに服を着ることも忘れ、水をコップから別のコップに移し替える、という謎の行動を長時間していました。その光景を見兼ねた私は、長男に対して、早く服を着るよう促し、あそびを半ば強制終了させました。

その後、納得いかない様子で服を着た長男に対して、「さっき、何をしてたん?」と問いかけると、普段より少し大きめの声で長男から返答がありました。「あそんでたんや!!」

そうでした。子供のやってることはすべてが「あそび」。愚問でした。しかし、当時の私は、さらに質問を重ねました。「なんで水を移し替えてあそんでたん?」すると、声を荒らげながら返答がありました。「楽しいからや!!」

長男よ、声を荒らげてまで父に気づかせてくれてありがとう(笑)。

子供はいつだって、あそんでいます。そして、楽しいからあそんでいます。当たり前ですが、子供自身に、自分を成長させようなんて目的があるわけではありません。楽しいからあそんでいる、それだけです。しかし、子供は楽しい活動のなかで、学びや気づきを驚くほどに得ているものです。今回の長男の行動も、きっと……(笑)。

また、何かを与えなくても、そこら中にある身近なものから想像力を働かせてあそびを展開し、自ら必要な力を身につけている、子供はすごい存在です。

しかし残念なことに、そういった子供のあそびは、たびたび大人に阻止されてしまいます。そうです、以前の私のような大人に、です(笑)。もちろん、風呂上がりに真っ裸であそんでいることに関しては問題でしたが、今思えば、何もあそびを終了させる必要はありませんでした。「服着てからにしとき~」と、ただ中断を促す声をかけていれば、彼の大切なあそびは保証できていたのです。

私自身、「子供はあそびを通して自ら学び育つ存在」だという認識はありました。しかし、長男の行動を見て「大切なあそびをしている」との認識は持つことができていなかったのです。子供の「あそび」を見つけられなかったのです。

子供の存在を今一度見つめ直す

大人に必要なこと、それは、子供の存在を今一度見つめ直すことです。「子供はいつだってあそんでいる」「子供はあそびを通して自ら学び育つ存在」。そんな認識があると、大人が子供の行動に興味を持ち、例えば「見守る」という行動も格段に増えるのでしょう。

そのことで、子供たちが自ら考え、試し、挑戦する、結果として意欲・計画性、創造性・自制心などの非認知能力が育まれるのだと感じています。大人の「子供」という存在の捉え方次第で、あそびが保証されるかどうかが変わってくるのです。

私が日々活動している保育現場でも、同様の場面はよくあります。

例えば、平均台の両端から子供たちが歩き出し、2人がぶつかりそうな場面があります。「危ない!」とすぐにあそびをやめさせる保育者も多い中、「見守る」という行動を選択する保育者もいます。

結果、どちらかが降りるなりして子供たち自身で解決、もしくは、ケンカが始まることもあります。時にはお互い見つめ合ったまま、数分が経過するという面白い光景も生まれます。まさしく、非認知能力が育つ場面です。

この「見守る」という行動を選択した保育者には、「子供は自ら解決できる力がある」という認識があるのです。いわば、保育者の「子供」という存在の捉え方が、「見守る」という行動を生み出しているのです。

もちろん、状況によっては、安全面を考慮して事前に声をかける、制止する、仲介することもあります。しかしながら、大人の出番は思っている以上に少ないものです。

ここまで、子供のあそびを保証するには、「子供という存在をどう捉えるか」を見直す必要があり、その結果生まれる「行動」(例えば見守るという行動)が重要である、というお話をしてきました。

しかしながら、私自身が日々駆け回る教育現場において、陥りがちな状況があります。それが、「行動」だけを切り取って実践される状況です。

先ほどの平均台の例を用いるならば、「見守らなければならない」と思い、見守っているのか、「この子たちはどうやって解決するのだろう?」と期待しながら見守っているのか、この差です。

「どっちの親が正しい?」

突然ですが、クイズです! 休日に「子供を公園に連れて行く親」と「子供と家でテレビを観ている親」、どちらの方が子供の成長に良いと思いますか? ここまでで判断するなら、前者という回答が圧倒的に多いと思います。

では、以下のような大人の心情を付け加えればどうでしょう? 「本当は面倒だけど、子供のために仕方なく公園に連れて行く親」と、「この子と過ごす時間は本当に幸せだなぁと喜びを噛み締めながら子供と家でテレビを観ている親」

私は、後者の方がずっと教育上は健全だと考えます。もちろん、テレビを長時間観ることの弊害はあると思いますが、時間を区切ったりして、親子の楽しいひとときを過ごせるなら、イヤイヤ付き合っている親と一緒に公園に行くよりも、ずっといい。

子育てというのは、どうしても大人の「行動」に焦点が当たり、大人はつい肩に力が入ってしまいます。「休みの日ぐらい公園に連れて行ってあげなければ……」「本は1日1冊でも読んであげなくては……」「良いところを見つけて褒めなくては……」子育てに熱心な親や保育者ほど、子供に対して良い「行動」ができていないことで、自身が否定感情を持ってしまうことも多いのです。

しかし、子供は「行動」だけでは育ちません。行動と同様もしくはそれ以上に、大人の「心情」が子育てにおいて重要なのです。それは、子供が大人の心情をキャッチできる素晴らしい存在だからです。その点を踏まえると、公園に行けば良い親、本をたくさん読めば良い親、といった表面的な話だけで、子育ては成り立たないのです。

冒頭で述べたように、大人も子供も響き合って育ち合う「響育」の考え方で重要なのは、大人と子供、互いの気持ち(心情)が通い合っていることなのです。

そして、私の使命は、独自の「運動あそび」を通じて、大人の「心情」を自然と良いものにすることだと思っています。

PROFILE

阪田 隼也(アフロコーチ)
株式会社リーベ 代表取締役
大学卒業後、小中学校にて、保健体育科講師として勤務。その際、運動が嫌い、遊ばない子供を見て、就学前の体づくりの在り方に疑問を持ち、運動あそびプログラム「リーベ式運動あそび」を開発。全国の幼稚園・保育園で指導を行う。子供たちの意欲を引き出し、保育者も楽しめる独自のアプローチが評判を呼び、2012年の開始以来、100を超える幼児保育・教育機関、延べ18万人の子供たちにプログラムを提供。現在では、保育者が童心にかえり、笑い楽しみながら学びを得る「おもろイズム研修会」の実践、保育者が子供の魅力を再発見できる遊具「セカイイチのハシ」の開発・販売にも力を入れている。


文:加瀬詠希

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